江戸五色不動(目黒、目白、目赤、目青、目黄) (ここ、ここ、ここ、ここ、ここ、ここ)の1つ、 南谷寺(なんこくじ)の目赤不動。 全然関係ないが、これを思い出した。 |
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吉祥寺の地名の由来である、 吉祥寺(ここ、ここ)の山門。 |
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吉祥寺の大仏。 大きさを比較するため、 階段の所に首記参考資料(高さ約20cm)を置いた。 |
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吉祥寺内の建物。 銀閣寺に少し似ている。 |
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駒込名主屋敷(ここ、ここ、ここ)の門。 | |
富士神社内にある駒込富士塚。 東京近郊の富士塚については ここ、ここ、ここを参照。 |
階段の両側にはこのような石が並ぶ。 |
文京グリーンコートの庭園に 残っているモニュメントより転載。 |
戦前の理研付近の写真(右が六義園)。 「大東京写真案内」(昭和8年発行、博文館)より転載。 下から昭和小学校(右)と土木研究所(中央)と理研23号館、 東洋文庫、理研、 一番上が府立五中(現小石川高)(右)と栄養研究所(左) と思われる。 |
昭和6年の地図(上が六義園)。 「東京の戦前2」(草思社)より転載。 |
昭和29年の写真(ここから転載)(左が六義園)。 1枚上の写真と方向が反対。 現在、C23号館、D37号館、E43号館が残っている。 |
1号館(ここから転載)はすでに存在しない。 |
昭和16年の建物配置図(ここから転載)(上が六義園)。 |
昭和33年の建物配置図(上が六義園)。 |
現在、23号館は 日本アイソトープ協会の敷地内にある。 3枚上の戦前の写真にも写っている。 |
大正8年の23号館(ここから転載)。 |
現在の37号館。 | |
現在の43号館。 現在、理研駒込分所になっている。 |
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同上。 |
37号館から43号館を臨む。 4枚上の左の図によると、戦前はここにも建物があった。 |
理研の隣の東洋文庫は今も存在。 |
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同上。 | |
日本医師会館。 | |
六義園の近くにあった建物。 宗教関係の施設らしい。 |
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六義(りくぎ)園(ここ、ここ、ここ)。 しだれ桜を撮影するためか、 開園前にすでに行列ができている。 |
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六義園のしだれ桜。 天気が悪く、きれいに撮れなかった。 |
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六義園内。 | |
同上。 | |
同上。 | |
高台(藤代峠)からの眺望。 | |
渡月橋。 2つの大石で作られている。 |
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園内を一周して戻ると、 桜の近くで撮影するカメラマンが増えており、 写真に人を入れずに撮影するのは 困難になっていた。 |
1947年頃(ここから転載)。 左は埼京線。 |
現在。旧本館(黄色い矢印)と275号棟(赤い矢印)が残っている。 公園の上は陸上自衛隊十条駐屯地。 |
陸上自衛隊十条駐屯地。 | |
275号棟 (ここ、ここ、ここ、ここ)。 |
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同上 |
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旧陸軍東京第一造兵廠本館。 (ここ、ここ、ここ)。 現在は北区中央公園文化センター。 |
裏側。 |
毎度おなじみ薄い建物。 |
1947年頃(ここから転載)。 右は埼京線。 |
現在。アルファベットは以下の説明と対応。 |
A地点の建物。 |
1枚上の写真のA、B地点には、戦前、火薬の研究室があった。 建物の屋根は薄くできていて、 火薬が爆発したときに屋根がすぐに抜けて、 隣接する石神井川に落ちるような設計になっていた。 戦後、理研の宇宙線研究室となった(現在は別の研究室)。 |
B地点の建物。 |
同左。 |
同上。 | |
C地点にある怪しげな倉庫。 戦前からの建物かどうかは分からないが、 4枚上の1947年の航空写真にも写っているようだ。 |
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D地点の建物 (愛歯技工専門学校の敷地内)。 |
「日本の軍事遺跡」(河出書房新社)によると、 これは旧火薬庫で、事故の際、被害を抑えるため、 爆風を上に逃がすよう、側壁を頑丈に、屋根を弱く造り、 土塁で囲んだとのこと。 |
戦前、E、F地点に何があったかは分からないが、 石神井川の対岸と同じく、火薬研究室かも知れない。 戦後、野口研究所となった(ここ、ここ)。 E地点の建物(左の写真)は当時の建物かどうか分からない。 |
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F地点の建物は当時の建物と思われる。 |
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8枚上の左右の航空写真のG地点の道は軍用鉄道跡で、 現在は野口研究所内の道になっている。 加賀公園からフェンス越しに野口研究所を見ると、 G地点の道が見えた。 道の左側が現在の野口研究所の外周。 |
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加賀公園のH地点のブランコ近くにあるこの遺物は、 ここによると、標的跡らしい。 |
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H地点からフェンス越しに野口研究所内を見ると、 これが見える。 ここによると、弾道検査管らしい。 |
石神井川をはさんで、右が野口研究所、 左が理化学研究所板橋分所。 |
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現在の航空写真の M地点にあるモニュメント。 |
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上記地点(1947年の航空写真のK地点か?)にあった、 左の写真の建物の側面をモニュメントにした。 ただし、下の写真の点線の部分だけが元のレンガ。 |
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黒っぽい部分が元のレンガ。 |
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圧磨機圧輪(あつまきあつりん)記念碑。 |
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国立スポーツ科学センター。 | |||
都立産業技術研究所。 | |||
本蓮沼付近。 左が旧中山道。右が現中山道。 |
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旧中山道に入ってすぐの左側にある、 きりんびる。 |
旧中山道。 | |
環七(左右)を通過する旧中山道。 |
板橋宿についてはここ、ここ、ここを参照。 |
縁切榎(えのき)(ここ、ここ、ここ)。 | |
商店街の飾り。 | |
「板橋」という地名の由来になった板橋。 腹が減ったので、橋の向こうの右側の店で たいやきを5つ買って,、一気に食べた。 |
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板橋宿の本陣は 左の黄色い看板あたりにあった。 |
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街道沿いには、宿場っぽい建物はごくわずかだった。 | |
裏通りで見つけた古い倉。 | |
昔風の銭湯。 | |
平尾追分の分岐。 左が川越街道。右が中山道。 |
戦前の平尾追分。中央は板橋警察。 「大東京写真案内」(昭和8年発行、博文館)より転載。 現在は川越街道の道幅が広くなっているので、 左の写真と同一地点かどうかは分からない。 |
近藤勇(いさみ)墓所(ここ、ここ、ここ、ここ)。 | |
同上。 | |
宿場町っぽい建物。 | |
この踏切の右に、 都電荒川線の庚申塚(こうしんづか)駅がある。 とげぬき地蔵へ行く(帰る)人で 駅と都電内は混雑しており、 駅から電車が発車すると すぐに次の電車が駅に到着するため、 この踏切の遮断機はずっと下りたままになっていた。 |
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巣鴨の庚申塚(こうしんづか)(ここ、ここ)。 | |
「おばあちゃんの原宿」(ここ、ここ、ここ、ここ、ここ)の 巣鴨地蔵通り商店街。 人が多いので自転車を置いて歩いた。 そう言えば本物の原宿も、 昔、竹の子族(ここ、ここ)を見学に行って以来 行っていないことに気づいた。 |
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とげぬき地蔵のある 高岩寺(こうがんじ)(ここ、ここ、ここ、ここ)の門。 |
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本堂。 | |
とげぬき地蔵にひしゃくで水をかけ、 ガーゼでこすると その部分の病気が治るらしい。 |
順番待ちの人々。 とげぬき地蔵はいちばん向こうにある。 |
江戸六地蔵の一つ、 真性(しんしょう)寺(ここ、ここ、ここ、ここ)の 銅造地蔵菩薩座像(左)。 |
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ミニカー発見。 後ろにだけナンバープレートがついていた。 |
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大きさを比較。 |