本駒込駅〜駒込理研跡地〜六義園〜陸軍造兵廠跡地〜旧中山道〜とげぬき地蔵〜巣鴨駅
参考資料:東京山手・下町散歩(昭文社) コース8,1,7

今回も東京ポタリング。

地下鉄南北線の本駒込駅まで輪行し、
まず、首記参考資料の「コース8  江戸名勝探勝 染井・六義園」を開始。
目赤不動、吉祥寺、駒込名主屋敷、富士神社の駒込富士と廻る。

六義園と不忍通りを隔てた南側の長方形の区画には、
かつて理化学研究所(以下理研、現在和光市などに移転)があった。
現在、大部分の建物は取り壊され、
文京グリーンコートという高層ビル群になったが、
一部の建物が残っているので撮影した。

次に六義園(りくぎえん)を散策。
ほぼ満開のしだれ桜を撮影するため、
開園前から大勢のカメラマンが並んでいた。
しかし、曇天のため、しだれ桜はうまく撮影できなかった。

山手線の駒込駅を過ぎ、山手線、埼京線、京浜東北線に囲まれた三角地帯に突入。
いくつかの寺社や染井霊園などを通過した後、終点の西巣鴨駅に到着。

ここから次のコースの出発点に移動する途中、2個所で調査を行なう。
(なお、今回撮影した建物の一部は、このときのツーレポでも撮影している)。

ここによると、戦前、埼京線板橋駅と十条駅の間の線路の東側に、
東京第一陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)十条工場という兵器工場があり、
小銃、機関銃、通信機器、レンズ類、信管、火薬、弾薬などを製造していた。
当時の建物の一部(本館、赤レンガの275号棟(工場))が残っているので撮影した。

次に埼京線の線路を隔てた西側に移動。
ここによると、戦前、東京第二陸軍造兵廠板橋工場という
火薬工場があったとのこと。
これまた、当時の建物の一部が残っているので撮影した。

次に都営三田線の本蓮沼駅に移動し、
首記参考資料の「コース1  街道を歩く 中山道・板橋宿」を開始。

旧中山道を南下する。
街道沿いは商店街になっていて、昔風の家並みはほとんど残っていない。
2回ほど裏通りに入ったところ、昔の倉や古い家が残っていたので、
調べればもっとあるかもしれない。

上記コースの終点板橋駅から、次の「コース7  中山道・とげぬき地蔵」を開始。
ここから先の中山道も商店街で、同じような風景が続く。
とげぬき地蔵が近づくにつれ、人が多くなり、自転車で進むのが困難になったので、
自転車を置いて徒歩でとげぬき地蔵まで行き、撮影した。

都営三田線の巣鴨駅から輪行で帰宅。

江戸五色不動(目黒、目白目赤目青目黄
ここここここここここここ)の1つ、
南谷寺(なんこくじ)の目赤不動

全然関係ないが、これを思い出した。
吉祥寺の地名の由来である、
吉祥寺(ここここ)の山門。
吉祥寺の大仏。
大きさを比較するため、
階段の所に首記参考資料(高さ約20cm)を置いた。
吉祥寺内の建物。
銀閣寺に少し似ている。
駒込名主屋敷(ここここここ)の門。

富士神社内にある駒込富士塚
東京近郊の富士塚については
ここここここを参照。

階段の両側にはこのような石が並ぶ。
以下、駒込の理化学研究所(ここここここここここここ)跡地の調査。

文京グリーンコートの庭園に
残っているモニュメントより転載。

戦前の理研付近の写真(右が六義園)。
「大東京写真案内」(昭和8年発行、博文館)より転載。
下から昭和小学校(右)と土木研究所(中央)と理研23号館、
東洋文庫、理研、
一番上が府立五中(現小石川高)(右)と栄養研究所(左)
と思われる。

昭和6年の地図(上が六義園)。
「東京の戦前2」(草思社)より転載。

昭和29年の写真(ここから転載)(左が六義園)。
1枚上の写真と方向が反対。
現在、C23号館、D37号館、E43号館が残っている。

1号館(ここから転載)はすでに存在しない。

昭和16年の建物配置図(ここから転載)(上が六義園)。

昭和33年の建物配置図(上が六義園)。

現在、23号館は
日本アイソトープ協会の敷地内にある。
3枚上の戦前の写真にも写っている。



大正8年の23号館(ここから転載)。
現在の37号館。

現在の43号館。
現在、理研駒込分所になっている。


同上。

37号館から43号館を臨む。
4枚上の左の図によると、戦前はここにも建物があった。

理研の隣の東洋文庫は今も存在。
同上。
日本医師会館。
六義園の近くにあった建物。
宗教関係の施設らしい。
六義(りくぎ)園(ここここここ)。
しだれ桜を撮影するためか、
開園前にすでに行列ができている。
六義園のしだれ桜。
天気が悪く、きれいに撮れなかった。
六義園内。
同上。
同上。
高台(藤代峠)からの眺望。
渡月橋。
2つの大石で作られている。
園内を一周して戻ると、
桜の近くで撮影するカメラマンが増えており、
写真に人を入れずに撮影するのは
困難になっていた。
以下、東京第一陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)十条工場跡地の調査(ここここ)。

1947年頃(ここから転載)。
左は埼京線。

現在。旧本館(黄色い矢印)と275号棟(赤い矢印)が残っている。
公園の上は陸上自衛隊十条駐屯地。
陸上自衛隊十条駐屯地。
275号棟
(ここここここここ)。



同上

旧陸軍東京第一造兵廠本館。
(ここここここ)。
現在は北区中央公園文化センター。

裏側。


毎度おなじみ薄い建物
以下、東京第二陸軍造兵廠板橋工場跡地の調査(ここここここ)。

1947年頃(ここから転載)。
右は埼京線。

現在。アルファベットは以下の説明と対応。


A地点の建物。

1枚上の写真のA、B地点には、戦前、火薬の研究室があった。
建物の屋根は薄くできていて、
火薬が爆発したときに屋根がすぐに抜けて、
隣接する石神井川に落ちるような設計になっていた。
戦後、理研の宇宙線研究室となった(現在は別の研究室)。

B地点の建物。

同左。
同上。
C地点にある怪しげな倉庫。
戦前からの建物かどうかは分からないが、
4枚上の1947年の航空写真にも写っているようだ。

D地点の建物
(愛歯技工専門学校の敷地内)。



「日本の軍事遺跡」(河出書房新社)によると、
これは旧火薬庫で、事故の際、被害を抑えるため、
爆風を上に逃がすよう、側壁を頑丈に、屋根を弱く造り、
土塁で囲んだとのこと。
戦前、E、F地点に何があったかは分からないが、
石神井川の対岸と同じく、火薬研究室かも知れない。
戦後、野口研究所となった(ここここ)。
E地点の建物(左の写真)は当時の建物かどうか分からない。



F地点の建物は当時の建物と思われる。
8枚上の左右の航空写真のG地点の道は軍用鉄道跡で、
現在は野口研究所内の道になっている。
加賀公園からフェンス越しに野口研究所を見ると、
G地点の道が見えた。
道の左側が現在の野口研究所の外周。
加賀公園のH地点のブランコ近くにあるこの遺物は、
ここによると、標的跡らしい。

H地点からフェンス越しに野口研究所内を見ると、
これが見える。
ここによると、弾道検査管らしい。

石神井川をはさんで、右が野口研究所、
左が理化学研究所板橋分所。

現在の航空写真の
M地点にあるモニュメント。

上記地点(1947年の航空写真のK地点か?)にあった、
左の写真の建物の側面をモニュメントにした。
ただし、下の写真の点線の部分だけが元のレンガ。

黒っぽい部分が元のレンガ。

圧磨機圧輪(あつまきあつりん)記念碑。
国立スポーツ科学センター。
都立産業技術研究所。
本蓮沼付近。
左が旧中山道。右が現中山道。

旧中山道に入ってすぐの左側にある、
きりんびる。
旧中山道。

環七(左右)を通過する旧中山道。

板橋宿についてはここここここを参照。
縁切榎(えのき)(ここここここ)。
商店街の飾り。

「板橋」という地名の由来になった板橋
腹が減ったので、橋の向こうの右側の店で
たいやきを5つ買って,、一気に食べた。
板橋宿の本陣
左の黄色い看板あたりにあった。
街道沿いには、宿場っぽい建物はごくわずかだった。
裏通りで見つけた古い倉。
昔風の銭湯。

平尾追分の分岐。
左が川越街道。右が中山道。



戦前の平尾追分。中央は板橋警察。
「大東京写真案内」(昭和8年発行、博文館)より転載。
現在は川越街道の道幅が広くなっているので、
左の写真と同一地点かどうかは分からない。
近藤勇(いさみ)墓所(ここここここここ)。
同上。
宿場町っぽい建物。
この踏切の右に、
都電荒川線の庚申塚(こうしんづか)駅がある。
とげぬき地蔵へ行く(帰る)人で
駅と都電内は混雑しており、
駅から電車が発車すると
すぐに次の電車が駅に到着するため、
この踏切の遮断機はずっと下りたままになっていた。
巣鴨の庚申塚(こうしんづか)(ここここ)。
「おばあちゃんの原宿」(ここここここここここ)の
巣鴨地蔵通り商店街。
人が多いので自転車を置いて歩いた。

そう言えば本物の原宿も、
昔、竹の子族(ここここ)を見学に行って以来
行っていないことに気づいた。
とげぬき地蔵のある
高岩寺(こうがんじ)(ここここここここ)の門。
本堂。

とげぬき地蔵にひしゃくで水をかけ、
ガーゼでこすると
その部分の病気が治るらしい。

順番待ちの人々。
とげぬき地蔵はいちばん向こうにある。
江戸六地蔵の一つ、
真性(しんしょう)寺(ここここここここ)の
銅造地蔵菩薩座像(左)。
ミニカー発見。
後ろにだけナンバープレートがついていた。
大きさを比較。

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