【特別企画】東京近郊の戦跡を訪ねて
参考文献:「知られざる軍都 多摩・武蔵野」(洋泉社)


知られざる軍都 多摩・武蔵野」(洋泉社)という本を入手したので、
そこで紹介されている東京近郊の戦跡をいくつか訪ねることにした。
1947,48年頃の航空写真に写っている施設については、現在の航空写真と比較してみた。

1.第九技術研究所(登戸研究所)

この本によると、陸軍の第九技術研究所(登戸研究所)は、
新宿の戸山にあった陸軍科学研究所の秘密戦資材研究室が前身で、
昭和12年に登戸に実験場ができ、その後第九技術研究所となった。

秘密戦資材を極秘裏に研究し、諜報、防諜、謀略、宣伝、変装などに使われる兵器(超小型カメラ、
盗聴器、特殊インキ、オブラート便箋、偽造パスポート、無線機といったスパイ用品)、
病原菌、毒物、害虫、枯葉剤などの化学生物兵器、
風船爆弾、偽札(敵国紙幣を偽造してインフレを起こす)などの研究、開発、製造を行った。

なお、登戸研究所(ここここここここ)に関しては、
多くの書籍(ここここここここここなど)が出版されている。
風船爆弾についてはここここここここここここここここを参照。
また、登戸研究所は帝銀事件との関連も指摘されている(ここここここここ)。

登戸研究所は現在の明治大学生田校舎、生田中学付近の高台にあり、
明治大学構内にいくつかの遺構が残っている。
なお、登戸研究所遺構の見学は、明治大学生田校舎(044-934-7552)へ連絡し、
事前の許可を得る必要がある(写真を撮影する場合は申請の際にそれも明記すること)。

申請の際、一部の遺構は草に覆われており、蜂にさされる危険があるとの注意があった。

小田急線の生田駅まで輪行。
駐輪場に自転車を置き、守衛所で入構の手続きをして、崖沿いの道を高台へ上がる。
まだ朝9時過ぎだが、今日も真夏日で、歩くと腕から汗が噴き出してくる。

構内を一周し、実験中の事故で亡くなった所員を祭る弥心神社、
生物・化学兵器の開発を行った36号棟、弾薬庫(2つ)、
偽造紙幣の保管に使用された26号棟、偽造紙幣印刷工場だった5号棟、
陸軍の星マークがついた消火栓、動物実験の犠牲となった動物の慰霊碑を撮影した。

1947年頃の登戸研究所の写真
左上に少し離れて縦に並んでいるいくつかの建物は、
開発した器材の製造工場。

現在の明治大学生田校舎の写真。


崖の上にある明治大学生田校舎。
崖下を小田急線が通っている。
左の守衛所で、事前に見学申請をした旨を伝え、
構内(崖の上)に入る。
実験中の事故で亡くなった所員を祭るために、
研究・開発に対しておくられた報奨金で建立された
弥心(やごころ)神社。
同上。
青酸ニトリール、ヘビ、フグ、キノコの毒などが、
要人暗殺用兵器として開発されていた36号棟。
この建物は現在でも使われている。
扉が開いていたので中を撮影。
36号棟の周囲には温室が立ち並ぶ。
36号棟の近くにある弾薬庫。
右の草むらの中に、下の写真の弾薬庫がある。
弾薬庫。
戦後の一時期、学生サークルの部室として使われていたらしい。
偽造紙幣の倉庫として使用された26号棟。
同上。
同上。
同上。
右下が26号棟。
日本軍の軍資調達のため、
偽物の中国紙幣を印刷していた5号棟。
45億円分以上の中国紙幣を印刷し、
25〜30億円相当を中国で使用したと言われている。
同上。
同上。
同上。
陸軍の★のマークがついた当時の消火栓。
動物実験で犠牲になった動物の
動物慰霊碑。


2.調布飛行場付近の掩体壕

続いて多摩川を越えてしばらく走り、
調布飛行場付近の掩体壕(えんたいごう)を撮影に行く。

掩体壕とは、戦闘機を敵の空襲から守るための壕らしい(ここここここここここを参照)。
今回撮影した壕は現在の調布飛行場からは若干離れているが、
戦時中の調布飛行場は現在よりもっと広かったらしい(下の写真とここここを参照)。

1947年頃の写真。
○で囲んだ部分が掩体壕と思われる(一番左が今回撮影した壕)。
周囲を見るとさらにいくつか写っている。
[参考文献]によると、調布飛行場周辺に30基ほどあったとのこと。
この地図に掩体壕と思われる記号が載っている。
しかし米軍の地図にも載っているので場所は把握されていたようだ。

現在の写真。
左の写真の調布飛行場の部分は駐車場や建物になっている。



上の写真の一番左の掩体壕
現在は物置として使われている。
同上。
同上。
同上。
同上。


旧調布飛行場に建つ警視庁警察学校。
こちらは警察大学校。
東京外国語大学。
同上。
広大だが人の少ない武蔵野の森公園
ここも旧調布飛行場の一部らしい。
武蔵野の森公園から東京外国語大学を望む。
現在の調布飛行場。
同上。

近藤勇生家跡。

同上。右は当時の写真。


3.中島飛行機三鷹研究所

まず、今回は行っていないが、中島飛行機と武蔵製作所について簡単に記述する。
中島飛行機(ここここここここ)は、戦前日本最大を誇る航空機メーカーで、
敗戦後、GHQにより解体、分割されられ、その後富士重工業となった。

1938年に三鷹に武蔵製作所が建設され、
昼間、夜間の交代制で、それぞれ2万5千人が働いていた。
武蔵製作所の遺構についてはここここここを参照。

空襲前の写真(扇形の部分が武蔵製作所)。

空襲中?の写真(ここから転載)。

1947年頃の写真




現在の写真。
右の丸い部分に、かつてプロ野球国鉄(現ヤクルト)スワローズの
グリーンパーク球場(ここここここ,)があったらしい。
左下の湾曲した部分は
三鷹駅、武蔵境駅から武蔵製作所への引込み線の跡(ここここ)。

さて、今回行ったのは中島飛行機の武蔵製作所でなく、三鷹研究所(ここここ)である。

[参考文献]によると、三鷹研究所は1943年に竣工し、主に新機の設計が行われていた。
下記は当時の写真(ここから転載)で、上から順に、格納庫、設計本館、試作工場らしい。

このうち設計本館が現在の国際基督教大学本館として残っている(ただし近年改装された)。
試作工場の部分は現在の富士重工三鷹製作所である。
工場内にノコギリ屋根の建物があったが、当時の建物かどうかは分からない。


1947年頃の写真
試作工場の上半分は破壊されているように見える。

現在の写真。
試作工場の部分に似た形のノコギリ屋根の工場が建っている。
富士重工三鷹製作所の入り口。
仕事で3回ほど構内に入ったことがある。
国際基督教大学(ICU)の入り口(この道は600m位続く)。
構内は広くて緑が多く、ピクニックの親子連れを見かけた。
国際基督教大学側から見た
当時の試作工場の位置に建っている、
富士重工のノコギリ屋根の工場。
国際基督教大学本館として使われている設計本館。
上から見るとEの形をしており、
Eの出っ張った部分は建物の裏側になる。

近年外観を改装したらしい。

これは改装前の写真(ここから転載)。
もう少し大きな写真がここにある。
次の目的地へ移動中に見つけた
変わった名前の会社。


4.多摩陸軍技術研究所(第一研究所)

ここによると、1942年頃から小金井に多摩陸軍技術研究所(第一、二、三、五、七、八)が設置された。
各研究所の位置と研究内容(ここにも記述あり)は次の通り。

第一研究所:小金井一中、二小、市営競技場、市営住宅およびその周辺。
         銃器、火砲、馬具、弾薬などに関係する部署。
第二研究所:本町小およびその周辺。
                 測量器、照準機、眼鏡などに関係する部署。
第三研究所:東京学芸大学東側部分、「プール跡」、およびその周辺。
                 渡河、鉄道、架橋、道路、爆破器材および一般工兵器材などに関わる部署。
第五研究所:情報通信研究機構付近。
                 電波、通信器材関係の部署。
第七研究所:サレジオ学園付近。
                 物理的兵器関連の部署。
第八研究所:学芸大学の中心付近。
                兵器の基礎研究に関する部署。

このうち、第三、五、七、八研究所(今回は行っていない)の範囲が
[参考文献]に載っていたので、昔と今の航空写真を比較してみた。

1947年頃の写真。枠は研究所の敷地を示す。
終戦後2,3年たっているので一部田畑になっているようだ。
枠で囲んだ部分は、
水陸両用戦車の実験用に作られた
プールらしい(ここここ参照)。

現在の写真。



(以下後日撮影)
今回は行かなかったが、次のツーリングで
東京学芸大付近に行ってみた。

東京学芸大近くの
プール前というバス停の近くにある、
塀で囲まれた空き地。
上記写真の枠で囲んだプール跡だと思われる。
(後日撮影)
学芸大構内。
当時の雰囲気が残っているような気がする。
(後日撮影)
3枚上の写真の、
右下の付近の塀(当時のものではないと思うが)。
塀の右が学芸大。
(後日撮影)
情報通信研究機構。

[参考文献]によると、第一研究所の建物の一部が
上水公園の管理棟になっているとのことなので行ってみた。
この建物は、昔の航空写真の円内の建物と思われる。
なお、この管理棟は2005年度に取り壊されるとのこと。

1947年頃の写真
枠は敷地の範囲ではなく、右写真と比較するための道路。

現在の写真。
この建物は上水公園の管理棟となっており、
草野球の受付や用具置き場になっているようだ。
グラウンド(写真撮影位置の後方)で
草野球の試合をしていたので、
これ以上は後ろに下がれず、
建物の全景を撮影できなかった。
ポールの下にいるのは草野球の選手と審判。
(後日撮影)
全景
(後日撮影)
裏側。
受付の人に頼んで内部を撮影させてもらった。
内部の写真はここが詳しい。
同上。
同上。
同上。
ここは二階。
同上。
次の目的地への移動中に、
昔一時期住んでいた場所の付近を通過したのでついでに撮影。

就職のため上京し、最初に2ヶ月ほど住んでいた
日立マイクロコンピュータエンジニアリング(日立マイコン)
という会社の寮2棟(けやき寮という名)が
ここにあったが、すでに別の建物になっていた。
(撮影した建物が違っていたので後日再び撮影。)

その寮は、長い廊下の片側に
六畳一間の畳部屋がずらりと並んでいた。
2人部屋なので、畳の中央から半分(三畳)が
自分のスペースだった。
風呂、トイレは共同。

(後日撮影)
建物の周囲。

何と当時の航空写真が
ここの「カラー空中写真の閲覧へ」にあった。
枠内の2棟が寮。
左の写真は↓の付近で撮影。
寮から2kmほど離れたところにある
旧日立マイコンの本社は健在。
ここで入社式を行った(その後1年で転職)。

日立マイコンはその後一部が分離、
さらに他社と合併し、社名も変わった。
向かいにある日立マイコンの親会社の
工場(旧日立製作所武蔵工場)。
ここの半導体製造現場で2ヶ月研修をした。

この工場は最近日立製作所から切り離され、
三菱電機から切り離された同種部門と合併し、
別会社となった。
津田塾大学。
同上。
玉川上水駅と多摩都市モノレール。








玉川上水駅は西武拝島線の駅でもあるが、
電車基地があるためか近くに踏切がない。
そのためか、自転車をエレベーターに載せて2階に上がり、
駅の構内を通り抜けるようになっている。
ただしエレベーターは狭く、自転車を斜めに(室内が正方形とすると対角線状に)しないと入らない。
モノレール。


5.日立航空機立川工場変電所

[参考文献]によると、現在の東大和市の東大和南公園付近には、日立飛行機立川工場があり、
3回の爆撃を受け、111人が死亡、ほぼ壊滅状態になった。
工場内の変電所(ここここここ)が現在も保存されている。
壁面(主に正面)には、機銃掃射による銃痕や爆弾の破片がぶつかった跡が残されている。
またこの付近に給水塔(ここここ)があったが、すでに撤去されたらしい。

帰りは玉川上水駅から輪行した。


次のレポートへ ツーリングの記録へ  ホームへ 自転車紹介へ プロフィールへ リンクへ